大妻でのお正月

明けましておめでとうございます。

新しい年が始まり、皆様の安寧とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

今年も大妻コタカ記念会へのご支援ご協力をどうぞよろしくお願いいたします。

時代とともにお正月の過ごし方は変化し、多様化していますが、戦後間もない戦争の傷跡がまだ生なましく物資の乏しかった時代に、大妻でのお正月はどんなだったのでしょう。

その思い出を、1991年(平成3年)1月8日発行の大妻学院報に当時常任理事であった長岡晃夫先生(現大妻学院顧問)がお書きになっていますのでご紹介いたします。

『焼け野原の中に大妻のコンクリート造りの校舎がひときわ目立って残っていた。大妻コタカ先生も焼け出されて、その校舎の校長室に畳を敷き込み、寝起きされていた。入り口とお住居を仕切る戸棚の裏には、出勤された先生が朝の挨拶とともに捺印してゆく出勤表が張り付けられていた。総勢二百人に満たず、先生方のお名前もすぐに覚えられるような昭和二十二年の大妻は、大妻先生を中心とした家族的な雰囲気の中にあった。

校内の大教室は畳が敷かれ、昼間は長座卓を使って授業が行われ、授業が終わると校内寄宿となっていた。準備室に積まれた寝具の山が崩れ、夜のとばりがおりるまで、そこは明るく弾んだ屈託のない談笑の声が満ちていた。

十二月の学期末も過ぎると、昼間の学生・生徒のざわめきも夜の寮生の談笑も消える。教職員の方々もそれぞれに故郷にと帰省されて、一人また一人と周りから人々が去って怖いような静寂だけが取り残される。

元旦の朝食(といってもすいとんかサツマイモ)が終わるころになると、校内の残った先生やお部屋の人たち十人ほどが大妻先生のもとに集まり、音楽の先生のピアノで簡単な式が始まる。それでも一応式次第にのっとり、新年のご挨拶や君が代から年の始め、校歌を全員で斉唱した。皇居、伊勢神宮の遙拝、それぞれの故郷の氏神さま方向に向かって、父母、ご先祖さまへの礼拝など信仰心の深かった先生を中心に静かでひきしまった小さな集まりであった。

この式が終わると先生は皇居参拝、日枝神社、大宮の氷川神社、靖国神社などのお宮参りに出かけられた。こうした正月の行事は、公式の式典がなくなった昭和二十一年から先生のお亡くなりになるまで欠かさず続けられた、と聞いている。

焼け跡の藜(あかざ)や校庭の桑の葉で空腹を癒していた時代にあって、先生は頂き物など少しの食べ物でも周りの人たちと常にわかちあわれていた。こうしたなかから、お正月のためにと少しずつ貯めておかれたほんのひとつかみのおせち料理と神棚用のお酒の残りでの乾杯であったが、新年を校内で迎えた者たちにとって本当に心温まるひとときであり、新しい年を迎えた喜びとも、期待とも、決意ともいえる感慨を覚えたものだった。』

大妻コタカ先生を中心として、ささやかでも心の繋がりの深さを感じさせるお正月の過ごし方が窺えます。そして信仰心の篤かったコタカ先生のお姿が浮かんできます。

この時代から60年以上の時が過ぎていますが、日本人にとってお正月は文末にある「新しい年を迎えた喜び、期待、決意」をもたらしてくれます。

元日の朝日新聞天声人語の言葉をいただいて、いや重(し)け吉事(よごと)、いや重け吉事。

※いや重け吉事とは…万葉集全20巻の最後の大伴家持の詠んだ元旦の祝い歌である「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事」より。

吉事とはよいこと、幸運なこと。そして、当時、雪は豊饒のしるしとされていた。

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