3月3,4日に大妻コタカ記念会と大妻コタカ・良馬研究所との共同で、広島県世羅町で大妻コタカ先生ゆかりの場所を巡る調査を行いました。
この調査にあたっては大妻同窓会広島・世羅代表の伊藤さんを始め、教育委員会の方々などたくさんの方にお力をいただき、大きな成果を挙げることができました。
まず初めに世羅町立せらひがし小学校へ。この小学校は120年以上も前にコタカ先生が通った川尻尋常小学校のあった場所にあります。ここにはコタカ先生が揮毫された「強く正しく朗らかに」の額が掲げられ、その下には「地域から学ぶ私たちの大先輩 大妻コタカ先生」としてコタカ先生の紹介がされています。
次に訪れたのは世羅町立甲山中学校。校庭にコタカ先生の書である「愛郷崇祖」の石碑があります。甲山中学校ではコタカ先生の教えを学び、修学旅行では毎年大妻を訪れていて、この「愛郷崇祖」の言葉は、教育目標の一つである「郷土に貢献できる生徒の育成」に通じるものとして大切にされていました。
次への途中、コタカ先生が校長を務め、地元でも大妻の教育が受けられるとして長く存続した大妻女子専門学校(昭和35年~昭和56年)の校舎跡にも立ち寄りました。「恥を知れ」の石碑が残り、コタカ先生が建設に奔走された当時の校舎もそのまま残っており、現在は森林組合が使用しています。
そして駅伝で有名な世羅高等学校へ。ゴールテープをイメージして建てられたという斬新な校舎の一隅にある同窓会室に、コタカ先生の書になる「楽学自尊」の額がありました。力強い書に、楽しく学び自分を高めることの意義が伝わってくるように思いました。
この世羅高校は世羅高等学校、甲山高等学校が統合されたものですが、甲山高等学校の前身をたどっていくと甲山高等女学校、さらには多田道子裁縫所までさかのぼります。
この多田道子裁縫所は、高等小学校を修了したコタカ先生が通った学校で、その裁縫所跡は県指定の史跡となっている今高野山の中にあります。
室町時代創建の総門をくぐり、熱心に学ぶコタカ先生の15歳の姿が目に浮かびます。
多田道子裁縫所は、女子といえども学問の重要性を説いた父親の影響で1897(明治30)年に創設されますが、その2年後に入学したコタカ先生は多田道子から大いに影響を受け、さらなる向学心を育み上京のきっかけとなったものと思われます。
教育委員会の学芸員の方がここまですべて同行してくださり、実に詳しく説明していただきました。本当にありがたいことでした。
翌日は大田庄歴史館で成安館長に地域の歴史、三川ダムなど詳しくご説明いただきました。
平家の落人伝説の残る久恵集落(くえしゅうらく コタカ先生の生家のある地)周辺は干ばつに悩まされていたため、三川ダムが建設され1960(昭和35)年に完成しました。
家々は水没の憂き目にあうこととなりましたが、コタカ先生の生家は移築され、今なお昔の面影を残しています。水没する前の家々の様子はどうであったか。残された写真を元に、成安館長にご説明いただきました。
以前ダムが干上がったときがあり、水没前の家や田畑がそっくり現れたこともあったとか。
最後には三川ダムまで行き、たくさんの収穫を得てこの旅を終えました。