隠岐の島調査

大妻コタカ先生著『ごもくめし』によると、大妻の校章の丸に糸巻きは大妻家の戦場での旗印として後鳥羽上皇から賜ったものであり、今から800年前の1221年、後鳥羽上皇が北条義時討伐に向けて挙兵した承久の乱では、大妻家は後鳥羽上皇側について戦ったと記されています。

また、戦いに敗れて隠岐の島に配流される後鳥羽上皇に従ったことも史料に残っています。上皇は都への尽きぬ思いを抱きながら1239年にこの島で崩御されました。

大妻家と深い縁のある後鳥羽上皇に関する史実調査に、7月初めに隠岐中ノ島を訪れました。

まずは上皇が隠岐の島に渡る前の9日間、風待ちをしたと伝えられる出雲の国美保の関の佛谷寺へ。このお寺には一行が小さな船で渡ったであろう様子を描いた絵が所蔵されています。

隠岐中ノ島(隠岐郡海士町)では後鳥羽上皇を祭神として祀っている隠岐神社の村尾さんにご案内いただき、上皇の行在所跡、火葬塚など(現在は宮内庁所管)を巡り、隣接する隠岐神社へ。

大妻良馬先生は宮内省の仕事として、この火葬塚の改修工事に携わり(明治45年)、コタカ先生は皇紀2600年(昭和15年)を記念して造営する隠岐神社の基礎工事の際に、この地に来られています。

われこそはにゐじま守よ 隠岐の海のあらきなみかぜ心してふけ (遠島百首より)

歌人としても名高い上皇が隠岐において詠まれた歌百首が「遠島百首」にまとめられています。歌に込めた心情はいかばかりであったかと、はるか遠い昔に思いをはせました。

海士町の大江町長さんにもお会いして大妻家と後鳥羽上皇のご縁についてご説明申し上げました。2021年は隠岐配流から800年、町では秋に記念行事を計画しているそうで、全島挙げて後鳥羽上皇(島では“ごとばんさん”と親しみを込めています)を再認識してもらいたいとおっしゃっていました。

風光明媚、海の幸にも恵まれたこの地に皆様も足を運ばれてはいかがでしょうか。

 

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