10月27日(土)、大妻コタカ記念会主催文化講演会を開催いたしました。
大妻学院創立110周年を記念した講演会で、「大妻コタカ先生・大妻良馬先生のルーツを求めて」と題して、所縁の地である広島と長野から講師の先生においでいただきご講演いただきました。
第一部は「コタカ先生のふるさと世羅」をテーマに、広島県世羅郡世羅町教育委員会の主査兼学芸員である林光輝先生にお話しいただきました。
林先生は小学校に上がるまで、世羅町にあった大妻女子専門学校のそばに住んでおられ、お母さまから「大妻」について話を聞いていたこともあったそうです。
講演は、現在の世羅町についての説明から始まりました。世羅高校の駅伝の強さをご存知の方も多いことでしょう。
「世羅」の地名は、延暦24年(805年)に古文書に初見され、文政3年(1820)には「世羅郡甲山町」の記述も見られるということ。
世羅には江戸時代から、孝養を尽くした阿姫(おひめ)という女性がおり、その碑を建立して讃える風土があったこと。
増上寺で修業をした僧雲南が創設した儒学の学問所「丘隅舎(きゅうぐうしゃ)」があり、ここで学んだ人は数百人といわれ農村の学問の興隆に大きく貢献していたこと。
このように古くから女性を讃え、学ぶ場がある風土で、明治の初頭に神戸や広島で学んでいた多田道子が、今高野山安楽院で私立裁縫所(戦後県立世羅高校となる)を開設し、若い情熱を傾けた指導に多くの子女が思慕し、その中の一人であるコタカ先生も多田道子に大きな影響を受け、上京の志を抱いたこと。
さらにコタカ先生とふるさと世羅とのつながりとして、世羅に開学して請われて校長に就任した甲山高等技芸学校、それが大妻女子専門学校に発展し、大妻の教育が地元でも受けられると、多くの人がここで学びんでいったことの説明をしていただき、また、現在世羅町に残されているコタカ先生揮毫の石碑なども数々紹介してくださいました。
最後に、女性の自立と学び続けることの大切さを教え、教え子からは「お母様」と慕われ多くの人に影響を与えたまさに「塩のごとく」の人がコタカ先生であったと結ばれました。
第二部は「大妻家と大祝諏方家の関わり」をテーマに、一般社団法人大昔調査会理事長の高見俊樹先生にお話しいただきました。
高見先生は、大妻大学博物館准教授の是澤博昭先生の研究(ひな人形)を通して以前から親交があり、またお嬢様が大妻女子大学の卒業生というご縁があります。
講演は、大妻家のルーツである長野の諏訪の地についてから始まり、諏訪の地形、そして御柱で有名な諏訪神社についての説明をいただきました。
かつて諏訪神社の最高神官であった「大祝(おおほうり)」は神宿る「現人神(あらひとがみ)」であったこと。
諏訪大祝の古系図に大妻太郎敦澄―大妻太郎兼澄の名が見られ、この二代兼澄は南安曇郡の荘官として大妻郷に居を構えていたが、承久の乱で後鳥羽上皇側につき敗戦死、その後裔は木曽に追われた一族と土佐に追われた一族があったとされること。
土佐に追われた一族は農業の傍ら医を営み、その末裔が大妻良馬先生になること。
長野の大妻郷には北大妻、南大妻、上大妻、下大妻の地名が残り、遺構はほほ失われるものの「史跡」を示す石碑が残っていること。
そして、今はもう途絶えてしまった大祝諏方家について。
高見先生は諏訪市博物館学芸員でいらっしゃったとき、最後の大祝諏方家の資料引継ぎに携わり、その中から諏方家と大妻との関わりを教えてくださいました。
大祝職は明治になってなくなりますが、頼固氏、頼宣氏が家督を継ぎ、頼宣氏の妻キマさんは大妻技芸学校の優秀な卒業生で、後に寮の舎監を務め、頼宣氏も大妻で教職についていました。その子弘さんと家族そろって東京に「大妻のおばあさま」と呼ぶコタカ先生を訪ねてきた写真なども見せてくださいました。
お二人の講演から、コタカ先生の偉大さやを知り由緒ある大妻家についても改めて知り得た貴重な時間をいただきました。
多くの方においでいただき、大妻学院創立110周年記念にふさわしい文化講演会になりましたことに感謝申し上げます。