10月21日(日)、大妻同窓会福島の総会が郡山ビューホテルで開催されました。
秋晴れのこの日、会場に赴く新幹線の車中からは色づいた木々を目にし、秋も深まってきたことを実感しました。
総会議事は皆さんの承認を得て進行し、次の講演に移りました。
今年は郡山女子大学の短期大学部副学長で美術史がご専門の齋藤美保子先生に「美と生活」という演題で、メタルビーズについてのお話を伺いました。
郡山女子大学は1947(昭和22)年に関口富左氏が郡山女子専門学院を創立したことに始まり、現在は大学院、付属高校も擁する大学に発展しています。
この大学の建学四十周年記念の「建学記念講堂」は丹下健三氏が基本設計を委ねられ、富左氏の原画により学生・生徒・教職員の協力によって制作されたメタルビーズの緞帳が備えられているそうです。
この日の講演にはメタルビーズのバッグをたくさんお持ちくださいました。
では、このメタルビーズとは?
縦糸に極小の金属のビーズを通した横糸を織り込んで作られるもので、緻密でしかも華やかな煌めきをもったものとして、主にバッグに仕立て上げられることが多いようです。
関口富左氏は上京の際に銀座和光によることを楽しみにしておられ、そこでメタルビーズのバッグを目にし、その美しさに魅了され、自らその制作を思い立ったそうです。
指導者を探したところ紹介された方が小説家の三島由紀夫(この時にはすでに没)夫人である平岡瑤子氏で、メタルビーズ作家として活躍されていた時でした。
富左氏は平岡瑤子氏を郡山の学園に月1回程度招かれ、教職員数名と共に技術の習得に励み(1980年代前半)、そのことから講堂の緞帳にその技術を結集することに繋がることになりました。
世界的にはこのメタルビーズは、1900年代初頭から30年代にかけヨーロッパの貴婦人たちに愛されながらも世界大戦により、作り手も材料も失われ、もはや甦らせるすべもなくなってしまい、バッグはアンティークショップに飾られる存在になってしまっていたそうです。
平岡瑤子氏にメタルビーズの手法を伝授したのは倉橋佳子氏で、倉橋氏は1970年代にパリでこのメタルビーズのバッグに出会い、その美しさに魅了され、ひとつふたつとバッグを買い増していき、1975年に日本に帰国後、このメタルビーズの技術の復刻、織機の開発、材料の開発などに奔走し、1979年に復刻版のメタルビーズバッグを日本で誕生させたという経緯があります。
その後、女性誌に取り上げられたり、教室もできて手作りのメタルビーズ愛好家が広まっていきました。
現在も銀座和光で展示販売されており、時折展覧会も開催されているそうです。 (平成29年3月郡山女子大学紀要第53集別冊による)
このようなお話を伺っていたところ、出席者の卒業生のお一人が「私が大妻女子大学4年生の時、このメタルビーズが夏休みの宿題になってバッグに仕上げた」ということをお話になり、かつて大妻でも授業で行われていたことがわかりました。
今年の総会には新しく会員となったお二人が参加されましたが、まだまだ気づいていない大妻の卒業生が身近にいらっしゃるでしょうね、と話し合いながら閉会となりました。
何とも美しく華麗なメタルビーズにすっかり魅せられた福島の一日でした。