今年は宮沢賢治生誕120年であることにちなみ、大妻コタカ記念会では12月10日(土)、記念文化講演会を「宮沢賢治が歩いた東京」という演題で開催いたしました。
講師は大妻女子大学教授であり、前宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事である杉浦静先生。
宮沢賢治は1933年(昭和8年)37歳の若さで亡くなっていますが、大正から昭和の初めにかけて9回東京を訪れ、語学学校に通ったり詩や短歌の創作活動をし、それを「東京ノート」として書き残しています。
はたして賢治の目に当時の東京はどのように映っていたのでしょうか。
杉浦先生は「東京ノート」にまとめられた詩や短歌を資料としてご用意くださり、東京での9回の足跡をたどってお話しくださいました。
最初に賢治が東京に来たのは、1916年(大正5年)高等農林学校の修学旅行で賢治20歳の時。東京蚕糸学校や駒場農科大学などを見学しています。
2回目は同じ年に、ドイツ語を学ぶためにかなり強引に上京し、麹町の下宿屋に泊まり、そこから神田の東京独逸学院に通ったそうです。道筋をたどると大妻のあるあたりも通っていたのでは、という考えも浮かびますが、残念ながらその年には大妻はまだここには移ってきていないのです、と先生のお話。
この坂は 霧のなかより巨なる 舌のごとくにあらはれにけり (神田にて)
賢治の東京での行動範囲は、麹町、神田、小石川、日本橋などで、時には吉祥寺や調布、さらには伊豆大島や静岡へ足を延ばしたこともあったようです。
9回のうちには、東京で学んでいた妹のトシの看病のためであったり、農民活動に必要な技術や知識を習得するためにチェロの個人レッスンに通ったり、タイプライターを習うことやエスペラント語を学ぶということもしていました。
また国柱会という宗教団体に入会してかなり心酔するようにもなったようです。
賢治にとっての東京とは?
東京へのあこがれ、知識や進んだ文化を取り入れることによって、初めのうちは何も見えなかったものが、だんだんと東京が距離を置いて見えるようになり、自分の心に「根拠」が作り上げられてくる、それが「イーハトーブ」=自然を蘇らせようという理想郷、ではなかっただろうかと結ばれました。
お話を伺い、「心象スケッチ」という言葉で表される賢治の思いに、少し近づけたように思いました。そして、短い人生にたくさんの業績を残した宮沢賢治の偉大さ改めて感じた講演会でした。